十六夜の厭世的雑録

人生をそんな深刻に考えるな・・・永久に続くものじゃないんだから。

すきま風

11月も下旬になり、朝晩は冷え込むようになってきた。


朝起きるとガラス窓に結露した水滴がついていた。
断熱材が家を包み込むように入っているので、気密性がいいのだろう。


夏は涼しく、冬は暖かく、快適な住環境を!
これは果たしていいことなのだろうか、と結露した水滴を見ながら考えてしまった。


昔の家には、現在のような暖房器具もなかったし、風の強い日などどこからともなくすきま風が入ってきて、家の中を風が通り抜けていった。


谷川俊太郎は「ゆとり」というエッセイの中で、こんなことを書いている。


「ゆとりとはまず何よりも空間のことである。ラッシュアワーの満員電車のように、心がぎゅうづめになっていてはゆとりはもてないだろう。
心にぎゅうづめになっているものが何であるかは関係ない。
それが欲であろうと、感情であろうと、思考であろうと、信仰であろうと、動かすことのできる空間が残っていなければ、息がつまる。
そして動かずにこり固まってしまう心はいきいきしない、他の心と交流できない。」


私は自分に問うてみた。
すきま風が入る隙などない密閉された空間に住んで、いつの間にかそれが快適と勘違いしていないだろうか。


いつも心に何かをいっぱい詰め込んで、それで知的好奇心を満足させていないだろうか。
美味しいものを腹いっぱい食べて、それで満ち足りた気分になっていないだろうか。


これでは、知らぬ間に肉体も精神も結露して黴が生えてしまう。
いや、黴が生えたことにも気づかないかもしれない。


詰め込むことより開放することを考えればいいのだ。
開放すれば、そこに空間が生まれ、自然に新しいものが流れこんでくる。
そこにはひとつの「流れ」ができるから黴など生える遑などないであろう。


「興(あた)ふるは受くるよりも幸福(さいわい)なり」という言葉は、ひとつのパラドックスとして真理なのだろう。
もちろん、ここで言っている「与える」というのは、金銭や物質だけではない。


あらゆるものをぎゅうぎゅう詰めて心を密閉するのはやめよう。
すきま風の入る空間を持つようにしよう。
心に黴が生えないように。


シロザの葉